イスラム教における スンニ派とシーア派の由来・違いなど


イスラム教については、我々日本人にはなかなか理解が難しいですね。しかし、世界への影響力はさまざまな局面で強まっています。数十年すると世界における人口ではイスラム教徒が最大になるとのことです。
ヨーロッパへの難民問題、石油をめぐる資源問題、同じ宗教でありながら激しい対立と争い、イスラム教徒にとってはなによりも大切なものが信仰であるというようなことは日本人には極めて分かりにくいことです。しかし、イスラムを知らずして世界の情勢・動向を理解することは不可能な時代になっています。
ちょっと、簡単に読める論文があったので借りました。イスラム教の2大宗派についての基礎知識です。
(日本で一般的なスンニ派より「スンナ」というのが一般的なようです。原語の発音に近いらしい。)


(一社)現代イスラム研究センター 理事長 宮田 律 スンニとシーア 57
中東協力センターニュース 2017・3 
分かれるまでの歴史的素描  
  イスラムの創始者,ムハンマド・イブン・アブドゥッラーは,西暦570年に生まれた。ムハン マドは,メッカ郊外のヒラー山の洞窟にこもって瞑想にふけるようになり,この瞑想の中で,40 歳の時に天使ガブリエルを介して神の啓示を初めて聞くことになったが,その後22年間(西暦 610年~632年),亡くなるまで神の啓示を伝え続けたが,彼が神から預かり伝えた言葉を記した ものが啓典「クルアーン」である。
  632年のムハンマドの死後,イスラム共同体は正統カリフ時代(632年~661年)を迎える。 4人の正統カリフたちは,すべて預言者と同時代の仲間で,イスラム共同体の使命を共有する者 たちであった。これらのカリフは預言者ではなかったが,共同体の政治的,また軍事的な指導者 であった。初代カリフのアブー・バクル(在位632年~634年)は,預言者ムハンマドの義父で あり,ムハンマドの存命中に金曜日の礼拝をムハンマドに代わって指導することもあった。
  第二代カリフのウマル(在位634年~644年)の時代は,イスラムの征服と拡張の時期で,彼 には「信義の司令官」,「神の預言者の代理」などの称号がつけられた。病床でウマルは,次期 カリフを選出するためのグループを指名する。このグループがカリフとして選んだのは,ウマイ ヤ部族出身のウスマーン・イブン・アファンであった。
  しかし,このウマイヤ部族は預言者の強力な競合勢力であり,古くからの預言者の支持者た ちの中には,このウスマーンの選出について快く思わない者たちが少なくなかった。しかし,ウ スマーンには強いリーダーシップを発揮できるような指導者としての資質に欠けていた。ウス マーンのカリフとしてのひ弱さと縁者びいきは政治的陰謀を加速させ,結局彼は656年,エジプ トから来た暴徒によって暗殺される。
  このウスマーンを継いだのが,アリー・イブン・アビー・ターリブ(在位656年~661年)であ った。このアリーは,ムハンマドに献身的に仕え,イスラムに早くから帰依した人物である。彼 は預言者の従兄弟であり,また預言者とハディージャの娘,ファーティマの夫でもあり,アリー とファーティマの間にはハサンとフサインという二人の息子がいた。多くのアリーの支持者たち は,イスラム共同体の指導者は預言者の一族から選ばれるべきであり,預言者はアリーを後継者 として指名したのだと考え,後にウマイヤ朝(661~750年)を創始するウマイヤ部族と敵対して いった。このアリーを支持する「党派(アラビア語でシーア)」がシーア派と呼ばれる宗派である。

教義上の違い 
 シーア派はイスラム共同体の最高指導者はアリーとその子孫のように預言者の血筋を引く者 でなければならないという王朝的な考えをもっている。つまり,イスラム世界の最高指導者とし て預言者ムハンマドの血筋を重視するのがシーア派で,それ以外がスンニ派ということになる。 16世紀にサファヴィー朝がシーア派の中の十二イマーム派を国家の宗教として採用して以来, イラン人の間では現在でも十二イマーム派の信仰が支配的である。十二イマーム派の考えでは, 初代イマーム(シーア派がイスラムの最高指導者とする人物)のアリーから数えて12代目の,行 方不明となったイマームは「神隠れ」の状態にあり,信徒の苦難の時代に正義と平等に基づく 統治を確立するために「救世主(マフディ)」として現れる(=再臨)。この「神隠れ」,「再臨」, 「救世主」という考えはスンニ派にはない。スンニ派はイスラム世界の最高指導者は信徒たちに よって選ばれた者であると考え,預言者の慣行(スンナ[スンニ])に最高の価値を認める。 

推計人口と地理的分布  
シーア派の宗教・政治運動はイスラム成立後5世紀の間イスラム世界で勢力をもったが,そ の後衰退する傾向にあった。ところが,サファヴィー朝による国教としての採用以来,イラン世 界では正統派の宗教としての地位を確立する。他方,イランとは異なる民族のアラブ世界では シーア派は政治・宗教・社会を支配するような宗派とはなりえぬまま現在に至り,それが現在特 筆すべきシーア派勢力がスエズ運河以東にしか存在しないことの背景となっている。
  イランではシーア派人口が9割前後に及ぶなど最もシーア派信仰が盛んな国だが,イスラム 世界全体で見ると,スンニ派が9割,シーア派が1割程度となっていてシーア派は少数派だ。ア ラブ世界でシーア派信仰が盛んな国としては,イランの隣国であるイラクがあり,イラクでは, シーア派系住民が6割と宗派別人口の上では最も多数派を構成する。これは,イラクがウマイヤ 朝やアッバース朝(現在のイラクと同様にバグダードが首都)などシーア派信仰が盛んであった 頃に宗派活動の場であったこと,またシーア派の聖地であるナジャフ(アリーの墓所がある)と カルバラー(アリーの甥のフサインがウマイヤ朝軍によって殺害されたところ)の存在と無関係 ではない。その他,シーア派信仰が盛んなところとしてはレバノン南部のジャバール・アミール 地方,アフガニスタンの中部高地のハザラ人(モンゴル系の民族)地域,ペルシア湾岸のバー レーン(シーア派人口がおよそ6割)などがある。 

習慣上の違い
  シーア派には「楽しみ」「喜び」を意味する「ムトア」婚という婚姻の契約期間を設けた一時 婚がある。ムトア婚はイランでは様々な解釈がなされるが,基本的には愛情がなければ別れると いう考えで,合理的な結婚だと考える人たちもいる。このムトアはスンニ派では禁じられている。 シーア派ではアリーの甥のフサインの殉教を悼み,体をむち打ちながら行進するアーシューラー と呼ばれる宗教行事があったり,アリーやその子孫のシーア派の聖人の墓廟を巡礼したりする。 偶像崇拝を禁じるイスラムの中でシーア派は個人崇拝の傾向もあり,イランではアリーの肖像画 が飾られたりしている。

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